神崎塾長のつぶやき
令和4年春号「春分と彼岸」
春分の日。それが「彼岸」の中日にあたることは、周知のとおりです。しかし、春分と彼岸は、本来は別々の行事なのです。
春分は、太陽の運行にしたがった節日。春分・秋分、それに夏至・冬至をもって「二至二分」といいます。旧暦(太陽太陰暦)でも重要なセチビ(節日)で、春分(あるいは、秋分)を記念しての行事も生じました。
たとえば、戦前あたりまで、「日のお伴」とか「日天さまのお伴」という行事がありました。春分の日に、一日外へ出て太陽を拝んで歩く。もちろん、休みながら、飲食もしながら。そうすると身体が丈夫になる、という伝承がありました。
また、この日をヒイミ(日忌み)として、仕事を休んだところも少なくありません。そのところでは、のちに春分が祝日となる民俗的な下地があった、ということになります。
そうした春分行事は、のちに彼岸行事への複合とともに後退しました。そして、私どもの知識の混同をまねくことにもなったのです。
彼岸は、仏教行事として発達し、各地の仏寺で彼岸会が催されてきました。
ちなみに、彼岸とは、仏典にいう到彼岸の略語です。生死と迷境を此岸、解脱の悟境を彼岸とします。そして、彼岸に渡るのを理想としてさまざまな浄行や修法の発達をみました。ということは、本来は日時を定めてのことではないはず。その彼岸行事を、日本では春分と秋分に振り分けました。いつのころ誰がそうしたのかは、定かではありません。
明治になって、春分の日に春季皇霊祭が新たに宮中で行なわれるようになりました。いわゆる皇室の祖霊祭ですが、春秋二季に執行されるようになったのは、明治一二(一八七九)年からのことです。明治政府が定めた神社神道の公事化にしたがってのことだったでしょう。しかし、その根拠も必ずしも明らかでありません。ちなみに、若月紫蘭『東京年中行事』(明治四四=一九一一年)にも、「春分と秋分に何故に彼岸の名をつけたかは、物好きな人の詮索に任す」とあります。
彼岸は、仏教行事とはいうものの、一般の人がこぞって寺社詣でをしたとはかぎりません。また、日を定めて詣でたともかぎりません。のちの経緯をみても、庶民社会の実際は、寺社詣でよりも墓参りが主流となっていくのです。
もっとも、寺社の彼岸会に行くのも自家の墓参りに行くのも浄行のひとつ。いずれもよし、となりましょうか。
伊勢 美し国から
番組概要
「伊勢美し国から」は、日本人古来の生活文化を「美し国」伊勢より発信する15分番組です。
二十四節気に基づいた神宮の祭事や三重に伝わる歴史、文化、人物、観光、民間行事などを紹介。古の時代から今に伝わる衣食住の知恵と最新のお伊勢参り情報を伝えます。
五十鈴塾は、日本文化の再発見を目指して各種講座及び体験講座などを開催してきた実績を活かして、この「伊勢美し国」番組企画を行っています。